考えない葦
人間は言葉の集積である。
我々は言葉を獲得しながら成長し、言葉を以て自身を定義し続けてきた。
家族の言葉を、町中の言葉を、インターネットの言葉を解釈し、自分の言葉としてきた。
その解釈こそが、私と貴方が違う根拠となる。
その解釈にこそ、我々は宿る。
解釈とは思考の前段階に存在する自己であり、意識的、或いは無意識に情報を処理するものだ。
何も言葉に限らず、視聴覚情報諸々、その受け取り方が千差万別であることが解釈の自己性の証左であろう。
また、解釈は蓄積する。
解釈とは思考の欠片のようなものだ。
文字を読んで考えたこと、言葉を聴いて考えたことはその情報に紐付けされ欠片となる。
その欠片が、更に次の思考の礎となるのだ。
逆説的に、思考を放棄すれば解釈もまた擲たれ、自己性が損なわれる。
私の言葉が、貴方の言葉と同値になる。
現代人はどうにも、思考を放棄することが好きなようだ。
この情報過多社会では、阿呆の様に大口を開けていれば情報が雪崩込んでくる。
何も考えず貪ることができる。
そして世論の波に揺蕩い、思考放棄を他責し、人生を変える言葉に翻弄されるのだ。
そもそも論、ぽっと出の他人に易易と変えられる程に人生というものは柔くないだろう。
何も考えないから、安易に人を傷つけ、行動の結果も予想できない。
その結果が今のインターネットの醜悪である。
という、自己批判。